◆『鬼・島津戦記。薩摩の意地』を読み解く

◆『鬼・島津戦記。薩摩の意地』を読み解く

※要旨

・関が原の戦いにおける島津義弘を逃す決死の策「捨てがまり」「島津の退き口」には、
彼らの凄みが凝縮されている。

ひとつは、主従関係の濃密さ。
義弘が敵中突破を決心した際、家臣の誰ひとり異を唱えず、
それどころか身を挺して主君を守り抜いて、主家の安泰を図る覚悟を固めた。

・戦のほか研ぎ澄まされたのが、外交感覚。
島津の歴史には様々な伝説に彩られている。

「退き口」もそうであり、最もたる例が、初代・忠久が源頼朝の落胤である、というもの。
在地領主らを統制する際、必須であり最も効果的だったのが、出自のカリスマ性や貴種性だった。
島津はそこで「忠久は直系の血が絶えた頼朝の御落胤」という貴種伝説を積極的に宣伝した。
このあたりの感覚は巧みな外交。

・島津四兄弟の牽引力のバックボーンには、祖父・島津忠良の存在がある。
忠良は「島津家中興の祖」とも呼ばれ、自身が遺した「日新斎いろは歌」という家訓の中で、
薩摩武士として守るべき教えを説いた。

・「日新斎いろは歌」は、島津が苦闘の歴史から導き出した政治哲学や戦闘哲学、
そして統治哲学の結晶だった。

・今でも鹿児島において、気合を入れる際に用いられる掛け声「チェスト!」は、
意地で逆境を撥ね返し続けた薩摩の気風を伝える、象徴的な言葉。

・豊臣秀吉の九州征伐の際、四国勢は豊後へ上陸。
戸次川の戦いが展開され、島津方の圧勝に終わった。

この戦いで四国勢の死者は、大将格の十河存保や長曾我部信親(元親の子)をはじめ、千人以上に及んだ。
若き島津家久の才腕と軍略が、四国勢を圧倒した。

島津側はのちに、敗れて船待ちしていた長曾我部勢に糧食を贈った。
さらに、この戦いで戦死した長曾我部信親の遺体や遺品を丁重に清め、長曾我部家に渡している。

・「負けるな、嘘をつくな、弱い者いじめするな」
これは、江戸時代の薩摩藩の郷中教育の中で、400年間、教え継がれてきた3つの掟。

・島津四兄弟の長男、義久は自身が戦場の最前線で指揮を執ることは少なかった。
総大将の役割に徹している。
個性の強い兄弟や家臣をまとめあげた義久なくして、島津の怒涛の躍進はなかった。
そんな義久を高く評価したのが徳川家康だ。

・家康は伏見の自邸に歴々を招き、それぞれ武功話を求めた。
義久は、次のように答えた。

「私には、自分の手を砕いた働きは何一つござらぬ。
幾多の合戦で勝利を収められたのは、弟たちや一族、家臣の功によるものに過ぎない」
自身の手を砕かず勝利を得る。

これこそが「頼朝公に並ぶ大将の道」であると、家康は感嘆した。
泰然と家をまとめあげた義久に、家康は総大将のあるべき姿を見出した。
義久が真っ先に弟らの名を挙げていることからも、
島津四兄弟がいかに一枚岩であったかが伝わってくる。

※コメント
義久の活躍を披露している文献は少ないが、彼の力は見つめ直すべきだ。
大将が動じないからこそ、みながのびのび働けるのだ。
現代にも通じるものがある。

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