◆佐野眞一『渋沢家三代』を読み解く

◆佐野眞一『渋沢家三代』を読み解く

※要旨

・私は『旅する巨人』という作品を発表した。
特異な民俗学者として知られる宮本常一を主人公とした評伝だった。
宮本の生涯を追ううち、もう一人の巨人が現れた。
それが渋沢栄一の孫で、脇役となった渋沢敬三だった。

・渋沢敬三は戦時中に日銀総裁、戦後は大蔵大臣を歴任した経済人でもあった。
しかし敬三はなによりも、民俗学をはじめとする我が国の学問発展に
陰徳を重ねつづけた類稀なるパトロネージュだった。

もし彼の物心両面にわたる援助がなかったら、
民俗学者宮本常一は絶対に生まれていなかった。

・渋沢敬三の魅力は私にとってそれほど決定的なものだった。
これほど格が大きく、懐の深い人物が日本人の中にもいたことを、
私はひそかに誇りに思った。

・渋沢栄一は7歳のときから私塾に通い、
四書五経、論語の漢学や知行合一の陽明学の手ほどきをうけた。

・栄一は近代的企業の創設に命を燃やした。
長男の篤二は廃嫡すら覚悟して放蕩の世界に耽溺した。
そして孫の敬三は学問発展に尽瘁して、ついに家までつぶした。

・事業にしろ遊芸にしろ学問にしろ、
自分の信ずる世界にこれほど真摯に没入していさぎよく没落していった一族が、
ほかにいただろうか。
渋沢家三代のおおぶりな健全さとなにもかも心得た懐の深さは、
日本人の精神からことごとく消え去ってしまった。

・渋沢一族が残した最大の遺産。
それは、第一銀行や国立民俗学博物館などの有形なものではなく、
われわれが忘れてしまった見事な日本人の、三代にわたる物語だったのではないだろうか。

・渋沢栄一は武蔵国の深谷にある藍玉生産を事業とする裕福な家に生まれた。
その後、倒幕を目指し志士となる。
しかし、ふとしたきっかけで徳川御三卿である一橋家に仕官する。
そこで一橋(徳川)慶喜に仕える。

・一橋家に仕官した時代、栄一は新撰組の近藤勇や土方歳三、西郷隆盛など、
幕末維新期を彩った錚々たる人物たちの謦咳に接し、大きな感化を受けている。

・栄一は徳川慶喜の弟である昭武に同行して、パリに行く。
そこで西欧文明に接し、株式会社や銀行制度、産業事情について学んだ。
その後、大蔵省に入る。

・栄一はのちの超人的な女性関係にもみられるように、生来マメでタフな男だった。
自分のやるべき仕事は、2日でも3日でも徹夜してやり遂げる。

・身は実業の世界にあって近代化に尽くしながら、
精神においてはあくまで幕臣でありたい。
渋沢栄一という男の面白さと決してゆるがない安定感は実はここにある。
そして多くの人々から尊敬を集めた理由も、またそこにあった。

・25年の歳月をかけた『徳川慶喜公伝』全八巻が世に出ようとしていた1917年、
栄一は折からの夏休みで仙台から東京に戻っていた孫の敬三を、
湯河原の天野屋旅館に呼んだ。

静養かたがた天野屋で『徳川慶喜公伝』の序文を書いていた栄一は、
その原稿を敬三に渡し、声をあげて読んでほしいと頼んだ。

・栄一はその序文で、自分がどうして慶喜公の知遇を得るに至ったか、
なぜこのような伝記の編纂を思い立ち、
どういう経緯で今日に至ったかをありのままに心をこめて書いていた。

・敬三は栄一にいわれるままにその序文を読み始めた。
はじめは退屈に思えたが、やがてその序文にこもる栄一という人物の気迫と、
幕末から維新の激動の歴史とともに歩んできたその人生のスケールの大きさが、
若い敬三の心にぐいぐいと迫り、魂をゆさぶった。

・そこには日本の国の生きた歴史が躍動し、日本人の心が渦巻いていた。
そして行間には、七十歳を越えてなお火のように燃える栄一の、
国を思い、世を思い、主君を思いやる、正直で真摯な熱情がみなぎっていた。
敬三はついに圧倒され、突然、嗚咽とともに泣き伏してしまった。

・これ以後、栄一の敬三を見る目が変わった。
廃嫡となった長男篤二にかわり、
孫の敬三を渋沢家の当主として育てあげるという意志が、
栄一のなかで本当に固まったのはこのときだった。

・栄一が開設に尽力した学校の一つに、
1875年創立の商法講習所(一橋大学)がある。
この学校で大きな学生騒動が起きたとき、栄一が出かけていったことがある。
殺気だった学生を前に、栄一はいつもの温顔のまま口を開いた。

「さて、おのおのがた・・・」

いきなり大時代がかったサムライ言葉を聞いて、
血気にはやる学生たちもさすがに静まり返った。
そして栄一の武士的信念にうたれて、最後はすっかり兜をぬがされてしまった。

栄一の言葉が学生に限らず類稀なる説得力をもったのは、
幕末維新をくぐり抜けてきた男しか発しえない「気魂」が、
そこにこもっていたためだろう。

・敬三が栄一の看病と葬式の心労と多忙などから急性の糖尿病にかかり、
その療養のため、昭和7年の春を伊豆の三津浜で過ごした。

療養中、敬三は滞在していた浜に隣りあった「内浦」という集落の古老から、
思いもかけない貴重な古文書をみせられた。
この地方屈指の旧家である大川家秘蔵の古文書だった。

・そこには、同家に伝わる戦国時代から明治にいたる二千数百点もの民俗資料が収録され、
これまで一度も発見されたことのない一つの村の400年にわたる歴史と、
海に暮らす人々の生活が克明に記されていた。

・驚喜した敬三は、一部ずつ風呂敷につつんで宿に持ち帰り、
貪り読んでは一心不乱に筆写した。
それからの敬三は、銀行業務をそこそこにこなしながら、
ほとんどこの作業に没頭した。

資料発見から最終巻の刊行にいたるまで約7年という膨大な作業だった。
敬三と仲間たちの手によってまとめられたこの総計3,000ページにもおよぶ
『豆州内浦漁民資料』の大著によって、民俗学者渋沢敬三の名は不動のものとなった。

・渋沢家三代の歴史をそれぞれ一言でいい表せば、
家父長制、放蕩、そして学問への没頭という言葉に集約することができるだろう。
渋沢家三代の女たちにとって、それはそのまま隠忍自重の歴史となった。

※コメント
偉大な実業家、渋沢栄一。
表もあれば裏もある。
世の中はそのようなものであろう。
そのことを強く教えてくれる渋沢家の人々でした。

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