◆草柳大蔵『実録・満鉄調査部、上巻』を読み解く
◆草柳大蔵『実録・満鉄調査部、上巻』を読み解く
※要旨
・満鉄調査部は、フィールドワークから作業をはじめ、
満州の原野から拾い集めた「事実」を組み立て、
これを「政策」にまで発展させて満州に働きかける仕事をした。
・満鉄調査部が蓄えた知性や方法論は、「らっき」が再び東の地平線から太陽になって昇るように、戦後の社会に蘇生した。
・戦後の政界、官界、学界、経済界には、かつての調査部員の存在があり、
彼らが「経済成長」の青写真を書いた、といっても過言ではない。
つまり、日本は敗戦とともに「満鉄」をはじめ数多くのハードウェアを中国に置いてきたが、
「頭脳」というソフト・ウェアはすっかり引き揚げてきたのだ。
・その時代と人間にとって、大きな象徴がある。
「赤い夕陽」に染まりながら1万2000キロものびる鉄路である。
「南満州鉄道株式会社」、通称「満鉄」の存在は、さまざまな貌で人々の心の中で生きている。
・市橋明子が、夕陽についで不思議に思ったのが、祖国日本の生活設備の劣悪さであった。
満鉄の、たとえば付属病院にゆくと、給湯装置は完備していたし、
医療器具は自動化された滅菌装置のトンネルからベルトでながれてくるのだ。
・満鉄本社には600台のタイプライターがうねりを上げ、電話はダイヤル即時通話であった。
大豆の集荷数量・運送距離・運賃はIBMのパンチカードシステムで処理された。
特急「あじあ号」は6両編成で営業速度130キロをマークしていた。
しかも冷暖房付である。
・満鉄にはロシア語の2級ライセンスを持つもの4500人、
中国語や英語を話せるものは、いや、話せないものはほとんど皆無といった状態である。
・この質量ともに重装備の「満鉄」が日本の植民地経営機関であったことはいうまでもない。
事業のはじめは鉄道と炭鉱の経営である。
「満鉄」は満州で生活する人にとって「赤い夕陽」とともに不滅の殿堂であった。
・この満鉄の頭脳に相当するのが「調査部」である。
・「満鉄調査部」が、その40年間に提出したレポートは6,200件に達した。
研究のために蓄積された資料は書籍・雑誌・新聞(外国紙)
のスクラップを合計すると5万点におよぶ。
以上は、楊覚勇の8年間にわたる調査によってとらえられた数字で、
楊は「この成果は20世紀アジアにおける知識の大宝庫ともいえよう」と高く評価している。
・人材も豊富なら資金も潤沢だった。
昭和13年、松岡洋右が満鉄総裁として「大調査部」を創立したときは、
全スタッフ2,120名、予算は800万円(今日の38億円に相当)。
また「調査部」は満鉄本社の大連にあっただけではなく、
奉天、ハルピン、天津、上海、南京、はてはニューヨークやパリにも事務所・出張所を出していた。
・満鉄調査部は旧帝国陸海軍にとっても「頼りになる頭脳」であった。
昭和18年から終戦まで関東軍参謀であった完倉寿郎は、
毎月送られてくる「満鉄調査月報」をむさぼるように読んだが、
昭和19年に調査部が依託にこたえて作成した「極東ソ連軍後方準備調書」は、
完璧という名にふさわしい水準であったと追憶している。
・後藤新平が満鉄の初代総裁になったとき、
「鉄道課」「地方課」「調査課」を満鉄の三本柱とし、
いわゆる「満鉄調査部」を誕生したのは、台湾の統治経験から出ているのであった。
後藤は、その立案や計画が、しばしば常軌を越える大きさを伴っていたので、
「大風呂敷」との異名も奉られている。
・後藤はその在任2年間という短時日の間に、
満鉄マンに金儲けや名誉のためではなく「仕事のための仕事」
をするような仕掛けをつくっておいたといえる。
人間がみずから動機付けで仕事をすれば組織はいきいきと動くであろう。
後藤は、後世の人間が求心的な仕事をすることによって、
自分の属する組織の力を増幅させるような「なにか」を残していったのである。
この「なにか」の内容は3つあるように思われる。
「発想の新しさ」「実行の大胆さ」「人間に対する信頼」、
これが後藤の人格を構成していた三要素で、発動すれば「破格非例の措置」となって、
そうとうな業績を挙げることになったといえる。
・後藤が台湾統治政策の眼目としたのは、フランスのハノイ政庁が注目したように、
台湾における伝統的な慣習の調査(旧慣調査)だった。
・満鉄調査マンに共通するのは、「資料」と「歩く」ということだった。
満鉄に入社すると、まず2年間は、新聞雑誌の切り抜きと読書だった。
一人が毎朝5、6紙の外国紙をあてがわれ、必要な箇所を赤鉛筆で囲む作業をさせられる。
手慣れてくると、この作業は午前中に終わってしまう。
・午後からは読書である。
読みたい本は図書館にそれこそ汗牛充棟のさまで詰まっていた。
マルクス・エンゲルス全集はもちろん、ヴォルガの「経済年報」、レーニン著作集、
「1927年テーゼ」などなど、日本内地では読むことはもちろん、
持つことさえ危険になっている本も自由だった。
※コメント
満鉄調査部の徹底した資料収集や現場調査の話は、面白い。
ネットで情報を簡単に収集できる時代に、
自分で一次資料で調べたものや足で稼いだ生情報は、
人々の魅力を惹きつける。
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タグ:200件に達した, 「極東ソ連軍後方準備調書」, 「発想の新しさ」「実行の大胆さ」「人間に対する信頼」、, 「赤い夕陽」に染まりながら1万2000キロものびる鉄路である。, つまり、日本は敗戦とともに「満鉄」をはじめ数多くのハードウェアを中国に置いてきたが、「頭脳」というソフト・ウェアはすっかり引き揚げてきたのだ。, ・「満鉄調査部」が、その40年間に提出したレポートは6, ・この満鉄の頭脳に相当するのが「調査部」である。, ・人材も豊富なら資金も潤沢だった。, ・市橋明子が、夕陽についで不思議に思ったのが、祖国日本の生活設備の劣悪さであった。, ・後藤新平が満鉄の初代総裁になったとき、, ・満鉄本社には600台のタイプライターがうねりを上げ、電話はダイヤル即時通話であった。, ・満鉄調査部が蓄えた知性や方法論は、「らっき」が再び東の地平線から太陽になって昇るように、戦後の社会に蘇生した。, ・満鉄調査部は旧帝国陸海軍にとっても「頼りになる頭脳」であった。, 満鉄に入社すると、まず2年間は、新聞雑誌の切り抜きと読書だった。
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