■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 英露のグレートゲームと幕末・明治の日本

■■ Japan On the Globe(1077)■■ 国際派日本人養成講座 ■■

英露のグレートゲームと幕末・明治の日本

幕末・明治の暴風雨を乗り切った我が先人たちの「世界史の教訓」は、我々への贈り物。
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■■■ 全国学生青年合宿教室 (東日本) ■■■

(伊勢雅臣)私が学生時代から学んできた合宿教室です。
今年は私も参加します。現地でお会いしましょう。

・平成30年 9月7日(金)~ 9日(日)
・国立中央青少年交流の家(静岡県御殿場市)
・テーマ 「世界における日本のあり方を考える」
「わが国の歴史と文化をより深く理解する」
「古典や短歌を通じて豊かな感性を育む」
・メイン講師 江崎 道朗氏「日米同盟の行方と中国への姿勢」
・参加費用 学生は12,000円、社会人は25,000円を前納
・詳細・申し込み http://kokubunken.or.jp/camp-east/
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■1.先人からの「世界史の教訓」という贈り物

中西輝政・京都大学名誉教授の最新刊『日本人として知っておきたい 世界史の教訓』[1]からは、幕末日本は、北朝鮮や中国からの脅威を受けている現代日本以上の危機的状況にあったが、我々の先人たちはその危機を見事に克服して独立を維持した事をよく学ぶ事ができる。

その「世界史の教訓」は先人から我々への、きわめて貴重な贈り物となっている。

アメリカの黒船艦隊が浦賀に姿を現したのは、嘉永6(1853)年で、これが日本に近代世界システム[a]の荒波が押し寄せた瞬間だが、それは当時の英露の地球レベルの戦いを考えれば、暴風雨の中の比較的静かな一幕であったに過ぎない。

ちょうど、この年から3年間続いたクリミア戦争はイギリスがフランスを誘ってオスマン帝国を支援し、ロシアと戦った19世紀最大の戦争で、双方合わせて数十万人の戦死者が出た。

クリミア半島は黒海の北岸にある半島で、この地が中心的な戦場の一つではあったが、それにとどまらず、イギリス東洋艦隊はロシア海軍を追って、インド洋や西太平洋から日本周辺を通り、カムチャッカ半島やオホーツク海で本格的な戦闘を繰り広げた。

駿河湾の沖合や能登半島の鼻先をかすめるように、ロシアとイギリスの艦隊が追いかけっこをすることもあった、というから、日本船や沿岸の土地が海戦のとばっちりを受けなかったのは幸運だった。[1, p22]

当時、大英帝国の外交を担ったヘンリー・パーマストンは、クリミア戦争に関して「これはトルコを支援するかではなく、英露どちらが世界を支配するかの問題だ」と述べている。[2, 1634]

イギリスとロシアがナポレオンを倒した1815年以降、ほぼ1世紀に渡って「英露どちらが世界を支配するか」の戦いを続けていた。

日本の開国も当然、こういう世界情勢を背景に考えなければ、真の姿は見えてこない。

■2.英露の「グレート・ゲーム」

海洋帝国イギリスが、地中海からペルシャ湾、インド、さらにはシンガポール、マレー半島を経由して中国へと、ユーラシア大陸の南縁沿いに勢力を伸ばしていったのに対し、

ロシアはモスクワから西はバルト三国、ウクライナ、ポーランド、東はカムチャッカ半島、ベーリング海峡へと、ユーラシア大陸の内陸部を東西に膨張していった。

この二つの勢力は主に3つの地点で衝突を繰り返した。

第1にバルカン半島で、ロシアにとっては欧州と地中海への入り口だった。

一方、イギリスにとっては、バルカン半島は地中海と中東の支配、「インドへの道」を守るために死守する必要があった。

そこを押さえていたオスマン帝国を巡って、英露が対決したのがクリミア戦争だった。

第2の衝突地点がアフガニスタンだった。

ロシアが南下してアフガニスタンに入ると、イギリス支配下のインドと中東が脅かされる。

イギリスは先手を打って、アフガニスタンを勢力圏に収めるべく現地勢力に対して、第一次(1838-1842年)と第二次(1878-1881年)の二度の戦争を行ない、保護国化した。

狭義には、この際のロシアとの情報戦をチェスになぞらえて「グレート・ゲーム」と呼ぶが、広義に英露の地球規模の覇権争い全体も「グレート・ゲーム」と呼ぶ。

第3の衝突地点が東アジアだった

パーマストンは外相時代、中国にアヘン戦争を仕掛けたが、その際には彼自身が「ロシアの中国支配を阻止するために、我々はどんなことがあっても中国を開国させなければならない」と書き記している。[1,p26]

「開国」とは、中国をインドのような直接支配の植民地ではなく、清朝の外形は残しつつ、貿易を通じて外交的経済的に「半分」保護国化する、という戦略だった。

■3.いくつもの大戦争を引き起こした英露のグレート・ゲーム

1856年3月に終結したクリミア戦争でロシアのバルカン半島南下を食い止めた後、首相となっていたパーマストン首相は、今度はロシアは中国を狙うだろうと予期していた。

その読み通り、わずか2か月後には、ロシアは黒竜江北側の外満洲の地を強引にロシア領土とした。

日本の面積の3倍近い広大な土地である。

これに対するイギリスの反撃が、その年の10月からのアロー戦争(1856-1860)だった。

中国官憲が英国船籍のアロー号に侵入し、イギリス国旗を侮辱したという口実で、フランスを誘い、英仏連合軍で一気に北京まで攻め込み、紫禁城を占領した。

徹底的に中国を叩き、イギリスの実質的支配下に置こうとしたのである。

中国への南下を阻まれたロシアは、再び中央アジアに矛先を変え、1885年、パキスタンに侵攻する。

これにイギリスは「バルト海にイギリス海軍を派遣して、ペテルブルグを焼き払う」事まで考えた。

この強硬姿勢によって、ロシアの侵攻は阻止された。

ロシアはまた矛先を変えて、極東での南下を目指し、これが日清戦争後の三国干渉(1895年)、そして日露戦争(1904-05)となる。

イギリスに後押しされた日本に負けたロシアは、再度、バルカン半島に目を向け、これが第一次大戦につながっていく。

このようにアヘン戦争、クリミア戦争、アフガン戦争、アロー戦争、日露戦争、第一次大戦と、19世紀から20世紀初頭の大きな戦争は、いずれも英露のグレート・ゲームの一環であった。

19世紀中葉に我が先人たちが乗り出した国際社会の大海では、かくのごとき暴風雨が荒れ狂っていたのである。

■4.グレート・ゲームを踏まえた幕府の卓越した外交力

幕末の日本は、北からはロシア、南からはイギリス、フランス、そして東からはアメリカと同時に3方からの西洋列強による圧力を受けた。

「世界の近代史においても、これほど厳しい国際環境に置かれた国はほかにありません」と、中西教授は断言する。

しかし、それに対応した幕府の外交力は卓越していた。

まず、嘉永7(1953)年7月にペリーが来航した。

当時のアメリカはまだ小国で、英露の二大国の争いの間に漁夫の利を得ようという魂胆だった。

そのわずか1か月半後に、今度はロシアのプチャーチンが長崎にやってきた。

イギリスとの戦いで、日本の港で補給を受けることができれば有利になるとの理由からだった。

ここで幕府は小国のアメリカと先に和親条約を結んだのだが、それは外交上、合理的な戦略だった。

もしロシアと先に和親条約を結んだら、イギリスへの敵対行為と受け取られかねない。

当時、アメリカはロシアと友好関係にあり、イギリスもカナダを巡る対立を鎮静化してアメリカを味方につけたいと思っていた。

日本と交渉するのがアメリカなら、両国とも手を出さずに様子を見よう、という態度だった。

幕府がアメリカとまず和親条約を結んだのは、賢明な処置だった。

もっとも、幕府は腐っても武士政権だったので、アメリカの恫喝的な外交に一方的に屈したのではない。

黒船艦隊は江戸を火の海にはできようが、上陸して日本を占領する力はない事を知っていた。

日本側交渉の担当者だった岩瀬忠震(ただなり)は、「(そっちは黒船で日本を火の海にするつもりだろうが)やれるものならやってみろ」と、逆恫喝もしたとの記録が残っている。

幕府は嘉永7(1854)年3月に日米和親条約を結んだが、同年10月にはイギリスに対して同様の和親条約を日本から提案して締結し、さらに翌年2月にはロシアとも結んだ。

英露のグレート・ゲームを踏まえて、双方の船に補給をすることで中立の立場を堅持した見事な外交だった。

■5.ロシア軍艦による対馬占拠

文久元(1861)年、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬を半年にわたって占拠するという事件が起きた。

船の修理の名目で勝手に工場を作り、近隣の村を略奪し、対馬藩主に港の租借を要求した。

藩も幕府も打つ手なしである。

対馬を抑えられたら、日本海はロシアの勢力圏に落ち、イギリスの対中貿易の最重要拠点・上海も脅かされる。

初代イギリス駐日公使ラザフォード・オールコックは、イギリスの軍艦を対馬に派遣して「ロシアを追い払う用意がある」と幕府に申し入れた。

ロシアを追い払った後は、対馬をイギリスの拠点とする魂胆だった。

その魂胆を幕府はよく見抜いていて、本音ではイギリスの助けがのどから手が出るほど欲しいのに、「我々はそれほど困っていないが、イギリスが軍艦を出したいのであれば許可する」という姿勢を貫いた。

イギリスは放っておいてもロシア軍艦を対馬から追い払うに違いないし、それを幕府が要請したら立場が弱くなる、と考えたのであろう。

イギリスはロシアに強い抗議をして、ロシア軍艦を対馬から退去させた。

オールコックは対馬占領を英本国に提案していたが、その許可は下りなかったようだ。

幕府からの依頼もないのにロシア軍艦を退けて、その後釜に座ったとしたら、イギリスはロシアと同様の無法な侵略国とのイメージを幕府に与えてしまう。

こうした外交の積み重ねで、幕府は、そしてその後継たる明治政府は、イギリスという国を理解し、信頼していったのだろう。

■6.日英同盟へ

一方、イギリスにとっても、日本の目覚ましい近代化努力、それに欧米人の騎士道に共鳴する武士道の文化を通じて、徐々に日本を理解し、信頼を積み重ねていったようだ。

特に日本の評価を高めたのは、1902(明治35)年の義和団事件で、北京の公使館地域が義和団の暴徒に囲まれた時だった。

ここには日本と欧米10カ国の公使館が集中しており、そこに義和団の暴徒が襲いかかった。

清国官憲は公使館地域を護るどころか、暴徒と一緒になって、攻撃する始末だった。

ここで各国駐在武官や義勇兵たちの先頭に立って獅子奮迅の働きをしたのが、柴五郎中佐率いる日本軍将兵たちだった

彼らは約2ヶ月、日本軍を主力とする1万6千の救援軍が北京に辿り着くまで、籠城戦を戦い抜いた。

公使団のリーダー、クロード・マクドナルド英国公使は「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と称賛した。[b]

そして、このマクドナルドが後に駐日公使となり、日英同盟を推進するのである。

この同盟は、イギリスが日本を極東における頼りになるパートナーと見込んだからこそ実現したのである。

その後、日本は存亡をかけてロシアと日露戦争を戦った。

日英同盟によって、英国は様々な情報を日本に提供し、またロシアのバルチック艦隊が欧州から極東に向かった際には、各地のイギリス植民地での寄港拒否などの妨害をして、日本の勝利に貢献した。

■7.多極世界の同盟戦略

日露戦争で日本はイギリスの「代理戦争」を戦った、とか、イギリスの「犬」になった、という言い方をする向きもあるが、そういう見方は正しくないと筆者は考える。

ロシアの南下に対して、一時の韓国のように事大主義でこれに従うか、独立を護るために戦うか、という選択をわが国は迫られていた。

そこで戦う道を主体的に選んで、勝利の可能性を高めるためにイギリスの後ろ盾を得た、という事である。

また、イギリスから見ても、日本は極東における頼りになるパートナーであって、使い捨ての「犬」だった訳ではない。

中西教授は、イギリスが世界の覇権を長期間、維持し得た原因として、「自分だけで世界を支配する一極覇権主義ではなく、他のライバル国との共存をあえて容認し、むしろそれらとの共存を重視する『多極的な世界秩序』の維持と安定を目指したこと」[1, p109]、と指摘している。

そのために、イギリスはスペインの南米利権を認め、フランスの中東やアフリカ、アジア進出も受け入れた。

そういう形で一緒に戦ってくれる同盟国を増やす事によって、グローバルな覇権を手に入れ、『多極的な世界秩序』を維持したのである。

この「多極世界の同盟戦略」は、レーガン政権が欧州、日本と連携してソ連を崩壊させた際にも適用された。

世界はある一国が一極覇権主義で成功するには、大きすぎ、多様化し過ぎている。

かつてのイギリス、あるいは現在のアメリカのようにグローバルな覇権国をリーダーとし、その陣営の一メンバーとして主体的に活躍する。

この多極世界における同盟戦略こそ、明治の先人たちが「世界史の教訓」として遺してくれた贈り物である。

■8.同盟をめぐる日本人の不適応

一方、中西教授は「同盟をめぐる日本人の意識や姿勢の根本に、何か大きな不適応の原因がある」と指摘する。

その不適応は、特に戦後、長い間、温室の中で暮らしてきた現代日本人に顕著だろう。

同盟とは多極世界における生存戦略であり、我々日本人は、過去、ほとんど多極世界を経験したことはなかった。

かつての東アジアは中国の一極支配であり、それに対してどうやって独立を護るか、というのが、わが国の課題であった。

孤立した島国にとって、中国以外の国との同盟とは縁遠い発想だった。

国内もほとんどの時代を通じて、朝廷や幕府のもとに一つにまとまっており、多極世界となった事はあまりない。

強いて言えば、戦国時代と幕末の動乱期だが、明治の政治家たちが多極世界を良く理解し、日英同盟という賢明な選択ができたのも、幕末動乱期を経験していたからかも知れない。

現代の我々は先の大戦以来、アメリカの一極支配の傘の下で、「対等な同盟国か、アメリカの属国か」という両極端しか頭にないように思える。

多極世界であれば、たとえば徳川家康が織田信長の同盟者だったように、より巨大な覇権に対して対等ではなくとも、主体的な同盟者という選択はありうるのである。

ロシアを破った日露戦争も、ソ連を打倒した冷戦も、わが国はグローバル覇権国であるイギリスやアメリカの主体的なローカル・パートナーとして活躍した。

現代は一極覇権主義を狙う中国に対して、同様の多極世界の同盟戦略が必要とされている

これこそ『日本人として知っておきたい 世界史の教訓』の最重要の項目ではないか。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

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『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー(全111件、五つ星のうち4.9)

■★★★★★やっぱり変だよ、今の日本(ushyさん)
戦後の日教組が主導する自虐思想を叩き込まれて成長したせいで、江戸時代・明治時代に世界から称賛される国民だったことも知らずにいました。

しかしなんか変だと感じ始めて、改めて情報を検索して意識して学習するようになった現在では、ある意図を持ったマスコミに情報操作されていると実感できるようになりました。その意味でも「日本人が知らない日本」は貴重な書籍です。
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b. JOG(222) コロネル・シバ~1900年北京での多国籍軍司令官
義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog222.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 中西輝政『日本人として知っておきたい世界史の教訓』★★★、扶桑社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594079369/japanontheg01-22/

2. 倉山満『嘘だらけの日英近現代史』(Kindle版)★★★、扶桑社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B06XD8LZ3W/japanontheg01-22/

3. 倉山満『嘘だらけの日米近現代史』(Kindle版)★★★、扶桑社、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B00A30WOEM/japanontheg01-22/

■伊勢雅臣より

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