「『押しつけ憲法』と民主主義」

古雑誌を整理していて、月刊文春2005年10月号、ミルトン・エスマン氏(コーネル大学名誉教授)による「『押しつけ憲法』と民主主義」という小論に目が留まった。

 エスマン氏は、1945年10月にGHQ民生局に着任。

日本国憲法起草作業の中心的人物であったケーディス大佐の下で働いた方である。

 次のように述べておられる。

「民生局が日本に残した最も大きな足跡は、やはり46年の新憲法の起草である(私は行政権を担当する小委員会に加わった)。

マッカーサー元帥の指令の下で、わずか9日間で極秘裏に起草され・・・・微小な専門的修正を施しただけで後に国会で制定された。

・・・・・・・・憲法草案に関わった七つの小委員会を見事にまとめあげた(ケーディス)大佐は、極めて聡明かつ人間味溢れる人物で、『46年憲法の父』と呼ばれるにふさわしい人物だと思う。

ただし、戦争を放棄した憲法9条は、マッカーサー元帥が自ら口述したものだ。」

「当時まだ27歳に過ぎない私だったが、行政権に関する草案作りに参画できたことを意気に感じ、権威主義的な明治憲法が日本国民に民主主義と人権を付与する公文書に取って代わられることを嬉しく思った。

しかし、憲法の草案が極秘裏に、しかも日本人が一人も参加することなく準備されたことは釈然としなかった。

だから私は、新憲法はおそらく占領が終わるまで持たないだろうと予測した。

新憲法が外国の軍事政権によって起草され、日本国民に押し付けられた公文書であることは、誰の目にも明らかだったからである。」

 マーク・ゲイン著『ニッポン日記』(原書初版は1948年、邦訳初版は1951年秋)でも、「この憲法で何より悪いのはマックァーサー元帥自身が書いたという軍備放棄に関する規定である。

・・・・・・・・・占領が終りさえすれば、日本が何らかの口実をもうけて(under one pretext or another)自らの軍隊(their army)を再建することは誰しもが疑い得ないことだからだ。

日本では地震が避けられないのと同様に、これは不可避なことだ。

・・・・・・マックァーサー元帥の日本における最大の記念碑は、彼の肉体的生命ののちまでも生き永らえぬかもしれぬ。」と述べられているのは、エスマン氏とほぼ同旨であるが、エスマン氏が、「憲法の草案がわずか9日間で極秘裏に起草され、しかも日本人が一人も参加することなく準備された」と明言されていることは、起草に関わった内部者によるものだけに重要であろう。

 『ニッポン日記』のちくま文庫版では、中野好夫氏が解説(1963年執筆)の中で、1951年の出版後、緒方竹虎氏からの「最近これほど面白く読んだ本はありません。

ことに憲法改正の時の内輪話は、敗戦国の何ものたるかを露骨に語るもの、実は今まで、これほどとは思っていませんでした。

感慨無量であります」という読後感が届いたことを紹介されている。

  中野好夫氏は「今でこそ日本国憲法成立までの歴史などは誰にでも簡単に知れる公知の事実になってしまったが」と書かれているが、1963年からさらに40年以上を経過した時点でのこのエスマン氏の小論など、「誰にでも簡単に知れる公知の事実」ということで、掲載当時は大きな話題にもならなかったのだろうか?

最近に至っても、「立憲主義」などと声高に主張する方々は、こうした憲法成立の経緯が「誰にでも簡単に知れる公知の事実」だと承知した上で立論しているのだろうか? 

成立経緯より内容こそが肝要だと言われるかもしれないが、占領軍によって、「草案がわずか9日間で極秘裏に起草され、しかも日本人が一人も参加することなく準備された」という内容を物神化する?というのは、あまりにも没主体的ではないだろうか?

 小生は、この月刊文春2005年10月号には中西輝政氏が「宰相小泉が国民に与えた生贄」という論文を寄せられていることから保存していたのだが、エスマン氏の文中では、

「権威主義的な明治憲法が日本国民に民主主義と人権を付与する公文書に取って代わられる」

「新憲法が外国の軍事政権によって起草され、日本国民に押し付けられた公文書である」と述べられている。

この「公文書」というのは、原文ではいかなる用語が使われているのだろうか?

「明治憲法が公文書に取って代わられる」という表現は、現憲法の成立経緯と内容の軽さを文字通りに示しているように私には思える。
   

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