「大本営報道班員山岡荘八」 From 上島嘉郎

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 『上島嘉郎のライズ・アップ・ジャパン』
     2019/7/2

         
          「大本営報道班員山岡荘八」

                     From 上島嘉郎
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前回のメルマガで山岡荘八の
『小説 太平洋戦争』を引用しました。

山岡荘八の没年は昭和53(1978)年ですから、
いまやその存在を知らない方のほうが
多いでしょう。

山岡さんは、例えば
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)
ではこう記されています。

〈1907-1978 昭和時代の小説家。
 
明治40年1月11日生まれ。「大衆倶楽部(クラブ)」を創刊し、編集のかたわら作品を発表、のち長谷川伸に師事。
 
戦時中は「御盾(みたて)」などの戦記小説、従軍記をかく。
 
昭和25年から17年かけて時代小説「徳川家康」を完成させ、43年吉川英治文学賞。経営指南書としてひろく愛読された。
 
昭和53年9月30日死去。71歳。新潟県出身。
 
本名は藤野庄蔵。作品はほかに「春の坂道」など。〉

『徳川家康』は全26巻の大作で、
昭和58(1983)年には

 
NHK大河ドラマになり、
滝田栄さん主演のこのドラマを
記憶している方は少なくないと思います。

これに『小説 明治天皇』と『太平洋戦争』
(当初の表題です)を加えて
「日本民族の個性を探る三部作」
との評もあります。

いずれの作品も、山岡さんが
大東亜戦争時の報道班員として
鹿児島県の鹿屋基地(海軍)で
特攻隊を見送った体験が原点を
形成しています。

『小説 太平洋戦争』第1巻の冒頭に
〈執筆を終えて〉との一文があります。

山岡さんが、執筆を決断し、
いかなる思いで書き続けたかを
語ったものです。

〈この戦争の根深さは、直接日本がこの戦争に突入した昭和十六年十二月八日の時点では、一文学青年に過ぎなかった私には、どうにも解きようもないものだった。(略)
 
 問題の東条内閣が成立した昭和十六年の十月十八日には、私は二度目の中支方面の従軍を終り、武漢三鎮から南京を経て上海に辿り着き、そこで長崎行きの連絡船を待っている時であった。(略)
 
 正式に徴用令書を受け取ったのは開戦直後で、私は三十四歳という働き盛りなのだから当然であったと思い、こうなれば日本人として生死すべきだと覚悟を決めた。(略)〉

山岡さんはサイゴンに飛び、
そこから英領シンガポールの陥落前に
タイ国へ入って、陸軍南下のあとを追って
バンコックからマレイに入ります。

そしてシンゴラ、コタバルを経て
ビナンの海軍基地に渡り、
ここで山下奉文率いる第25軍による
シンガポール攻撃と、
英軍の陥落を見届けました。

シンガポールは、インド洋と太平洋を結ぶ
「東洋のジブラルタル」と呼ばれた要衝です。

イギリスがその防衛に
最新鋭の戦艦を派遣したことからも、
彼らの植民地経営にとっていかに
重要であったかがわかりますが、

 
日本軍によってその地から
欧州勢力が一掃されたことは、
欧米によるアジアの植民地支配の
終焉の始まりでした。

当時、自由フランス軍(フランス亡命政府軍)
の指導者だったドゴールは、

「シンガポールの陥落は、
 白人植民地主義の
 長い歴史の終わりを意味する」

と語りました。

その歴史の現場に山岡さんは
立ち会っていたわけです。

〈こうして太平洋戦争と直接かかわりあいを持ちだして、
 
昭和二十年の十月十五日、
 
参謀本部と海軍軍令部の廃止が決定した時に徴用を解かれた。〉

山岡さんは、死んでいった人々の後を、
自分も追おうと考え、

 
鹿屋から沖縄の空へ見送った
特攻隊員の最後の署名帳を携えて、
恩師長谷川伸のもとを訪れます。

長谷川伸は、明治17(1884)年、
神奈川県生まれの小説家・劇作家です。

『都新聞』の記者を経て、
大衆小説や時代物の戯曲を多数発表し、
股旅物(またたびもの)の
創始者といわれます。

斯界の大家の一人です。

〈私は署名帳を先生に預けて死ぬ気であったが、先生はそれを一目で見破り、私が署名帳を差し出すと、これを白ちりめんの帛紗(ふくさ)に包み直して、私に突き返された。
 
「……これを大切に活かすのだね。それが生き残った者の勤めだろう」
 
 声は優しかったが訓戒は手きびしかった。
 
こうして私は、私の位牌を秘めた仏前に、突き返された署名帳を並べて納め、日々それと対面しながら戦後の右往左往の中で生きなければならなくなった。
 
 戦地から続々と友人達が復員しだした。
 
死んだと思っていた人がひょっこり帰って来たり、生きていると思っていた人がとっくに死んでいたりした。
 
生きて戻った人も死んでいった人も、みな善良で忠誠な同胞であった。〉

徴用されたときに死を覚悟した
山岡さんは自らの位牌を整えていました。

それが生き残ってしまった。

……山岡さんはその「勤め」を
強く意識します。

そして、”日本人にとっての太平洋戦争”を
書かねばならぬと覚悟を決めた動機を
次のように語るのです。

〈私が一番辛かったのは、占領軍が日々ラジオで語りかけて来る「真相はこうだ!」という独善放送であった。
 
 日本人のすべてがどのように巧妙に大本営や軍部に欺され、踊らされていた愚民であったかという放送が、これでもか、これでもかと、つるべ射ちに撃ちかけられた。
 
 私に、私の任務はまだ終っていなかったぞと悟らせてくれたのは、この放送であったといってよい。
 
 しかもあの広大な戦域のあちこちから、廃墟と化した母国に辿り着いてくる人々は日々の生活に追いかけられ、肩をすくめてこの悪罵に似た占領放送に耐えている。
 
それだけではなかった。
 
それと並行して進められているのがあの東京裁判という、始めから筋書きの決定していた子供だましの田舎芝居であった。
 
 それにもう一つ、直接執筆の動機をなしたのは、国内にあった人々は云うまでもなく、
 
広大な戦域に散って戦わされていた人々は、個々のおかれた戦場の実情はわかっていても、どういう関連で自分たちが、あのような苦戦を強いられなければならなかったのか? 
 
どうして日本は敗れてしまったのか? 
 
誰も的確には摑み得ないまま、みじめな敗戦生活を強いられているということだった。
 
 連合軍側はすべて正しく、日本の散華者はみな犬死――そんなあり得ない戦争が、
 
日本民族の手で強行されたなどと云っても誰も信じる者はあるまい
 
しかし、その関連さえわからないのでは占領政策の批判どころか、子女の質問にも答えられない。
 
(略)とにかく、何のためにこの戦争は起こり、どのような経過を辿って敗れ去ったか? 
 
その荒筋だけでも読みやすく書き残しておくことは、この戦争に物語作家として従軍した私の責任であったと思い返して筆を執ったのがこれである。〉

山岡さんは、戦時中の言動や
『御盾』(昭和18~20年)などの時局小説が
占領軍に問題視され、

 
昭和25(1950)年に解除されるまで
公職追放の身でした。

無念の思いを強く噛み締めた
であろうことは、想像するに難くない…。

10年ほど前になりますが、
保守派と見なされていた

 
当時30代の評論家が『諸君!』での座談会で、
歴史認識で他国と争う気はないし、
それに延々と付き合うことが
有意義だと思えない。

戦争の勝敗は「正しい意図を持っていたか」
といった道徳のレベルの議論には
本来馴染まず、仮に、主観的に
「正しい意図」だったとしても、

 
少なくとも「敗北した戦争」を
弁護する気にはならないと語り、
私はそれに大いなる違和感を覚えました。

大東亜戦争について、
「アホな戦争」「自爆戦争」と括る
昭和初年世代の”識者”もいます。

しかし、我が父祖の戦った戦争の意味は
そんな単純なものでしょうか。

私はそうは思いません。

先の30代の評論家の言葉には、
何とも老成した無気力さを感じます。

そこには、若々しい気力、
日本という国、日本人という同胞に
対する純粋な思いが感じられない。

かつて福田恆存が「若さ」
についてこう書いていたのを思い出します。

〈二十歳の青年は五十歳の壮年より、個体としては若いが、民族や人類の年齢としては三十年老いてゐるのである。
 
原始人より近代人の方が若さも生命力も乏しくなつてゐる。
 
若さ」の名誉に賭けても、時にはこの位壮大な規模で自分を眺めてみる事も必要であらう。〉

戦後世代の自惚れは、
戦前の日本を想像上でも
知ること能(あた)わず、
“あの戦争”に敗れたことを悔しい

 
と思う民族的な若さを
ついぞ持ち得ないのではないか、
という気がするのです。

小林秀雄が、反省したいやつは
勝手にすればいい、オレはしない、
と言ったような気概――。

その気概の代わりにあるのが
現状追認の小賢しさです。

戦争の勝敗が、道徳レベルの議論に
馴染まないのはそのとおりです。

しかし、問題なのは東京裁判が
その「道徳のレベル」をもって

 
敗者の日本を裁き、
日本人だけに侵略者という
烙印を押したことです。

大局的な歴史の流れから
俯瞰(ふかん)すれば、
戦争の物理的な勝者が敗者を一方的に、
道徳的に犯罪者扱いする資格はない。

そう考えるならば、
後世の日本人である我々は、

 
父祖が「敗北した戦争」を弁護し、
戦争犯罪に関する冤罪を
晴らす義務があると私は考えます。

いわゆる東京裁判史観の克服なくして
日本が戦後の国際秩序のなかで
正当な地位を占めることはできません。

それは、中国や韓国との関係
一つとってみても歴然です。

戦後の日本は、彼らから
「過去の反省」を持ち出される度に、

 
歴史の事実を自ら棚上げして
謝罪し、譲歩し、利益を与える
という悪循環が続いています。

『不敗の条件』(中公叢書)
という本があります。

イタリアの外交官出身の
ロマノ・ヴルピッタ氏の著書で、
氏は、戦後日本の知識人が
「儒林の精神」を失い、

 
浪曲などに見られる庶民的な
感傷性まで失って、
敗北の偉大さを尊敬する心もなく、
 
代わりに西欧の正義の醜い投影として
理屈っぽい独善的態度を
とってきたことを徹底批判しています。

平家の公達(きんだち)への
同情心を大事にした同じ日本人が、

 
なぜ自国の軍の偉大な悲劇に対し
戦犯の論理を適用して非難し、
歴史を忘却しているのか――。

そうした憤怒と哀しみを、
私は異国の人から告げられたことに
少なからぬショックを受けたものです。

私が、「大本営報道班員山岡荘八」の言葉を、
皆さんと共有したいと願う
所以はここにあります。

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