「盧溝橋事件の真相」  『上島嘉郎のライズ・アップ・ジャパン』

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 『上島嘉郎のライズ・アップ・ジャパン』
     2019/7/8

             「盧溝橋事件の真相」

               From 上島嘉郎

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第25回参議院選挙が始まりました。

日本の進路をどうするか、

政治家に何を託すか、
論じたいことはいろいろありますが、
民主主義下の「国民」が
まず持つべきものは、

 

今限りの水平的で個人的な
損得、利害、価値観を超えた
「歴史の総体」としての国を守る
という意識だと思います。

過去と未来との結節点に立つ者
であることを弁え、
我が身一つではなく日本の永続を考える。

父祖の歴史を我が身に連なるもの
として受け止め、
諸々を引き受け背負ってゆく
覚悟が必要です。

戦後の日本人は、
戦前までの日本人の歩みを、
先の大戦の勝者によって
歪められて伝えられました。

これを放置しては、
「日本の永続を考える」ことはできません。

――というわけで、

昨日(7月7日)は何の日か。

82年前に「盧溝橋事件」が起きた日です。

日本人の立場から事実に基づいて
振り返ってみましょう。

事典類を引きます。

たとえば『デジタル大辞泉』はこう説明します。

〈1937年(昭和12)7月7日、中国北京郊外の盧溝橋付近で日本と中国の軍隊が衝突した事件。
 
日中戦争のきっかけとなった。中国では七七事変という。〉

また、『ブリタニカ国際大百科事典』はこうです。

〈1937年7月7日夜、中国、北京南西郊の盧溝橋付近で、演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して十数発の射撃がなされたことを契機に、日本軍と冀察政権 (政務委員会) 第 29軍との衝突に発展した事件。
 
日中戦争の発端となった。
 
中国では「七七事件」として知られる。
 
最初の十数発の射撃が日本側の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている。(後略)〉

他の事典や教科書の類を見ても、
概ね共通しているのは、

「日中戦争(支那事変)の切っ掛け」

となったのが盧溝橋事件で、
「最初の射撃」が日中どちらの軍に
よるものかは不明だが、

「過去のアジアにおける戦争は
 日本の中国侵略によって始まった。
 だから悪いのは日本」

というイメージです。

しかしこれは、
いわゆる東京裁判史観によって
日本人に固着されたものに過ぎません。

東京裁判の法廷は、
盧溝橋事件の真相追及に
深入りすれば中国側が不利になることを
知っていたと考えられます。

検察側が「中国との戦争を望む日本軍の挑発」
である証拠として提出した
『七・七紀実』を採用しながら、
実際には早々に審理を切り上げました。

かりに盧溝橋事件が
日本軍の計画的な侵略作戦の発動だとしたら、

 
北京郊外における日本軍は
それに備えた配置に
なっていなければなりませんが、
そんな準備はまったくなされていません。

事件当日の経緯はこうです。

7月7日、盧溝橋付近で
夜間演習をしていた
支那駐屯歩兵第一連隊(牟田口廉也中将)
の1個中隊が、突然、

 
永定河の堤防方向から
十数発の銃撃を受けました。

堤防一帯は国民党系の

第29軍(宋哲元軍)が警備していました。

中隊長が点呼をとったところ、
兵士1人が行方不明だったので、
中国軍拠点の宛平城内の
捜索を求めました。

事件処理に当たった牟田口の証言によれば、
中国側に抗議したところ、
秦徳純北京市長は

「そんなところに中国軍はいない。
 西瓜小屋の番人か共産党ではないか」

と応じたのです。

日本軍が申し入れた調査のための
立ち入りは拒まれ、
行方不明の兵士は帰隊したものの、
交渉はなお続いて、

 
8日午前1時過ぎには中隊の母体である
大隊が宛平城への入城態勢をとり、
交渉がなお続いている同未明、
大隊は中国側から2回目の
銃撃を受けました。

このとき交渉のため連隊から
派遣された森田中佐が到着し、
攻撃体勢をいったん解いて
交渉によって解決する旨を
伝えたにもかかわらず、

 
中国側から猛烈な射撃を受けたために
同大隊も応戦し、戦闘が拡大したのです。

挑発はどちらがしたかということは
明らかなのです。

戦後、中国共産党の
劉少奇(のち国家主席)が、
北京の清華大学の学生と青年党員を
使嗾(しそう)して、宋哲元の
第29軍の下士官兵を煽動して
発砲させたことを明らかにしました。

にも拘わらず、未だに発砲は

「日本側の謀略か抗日勢力によるものかは不明」

とは、日本軍と蒋介石軍を戦わせ、
漁夫の利を計った存在(中共)を
秘しておきたい、

 
歴史の事実として広く認識させたくない
と考える勢力が力を持っている
ということでしょう。

日本政府(近衛文麿内閣)も軍も、
この時点での対中全面戦争は
まったく考えていませんでした。

ソ連の軍事動向を懸念していましたから、
政府も軍も、盧溝橋事件に対しては
不拡大方針をとって現地での
収拾を命じました。

実は、盧溝橋事件勃発の
5年前(昭和7年[1932])、
すでに中国共産党
(中国ソビエト共和国臨時中央政府)が
対日宣戦布告を行っていたことが、

 
東京裁判の弁護側却下・未提出証拠資料の
収集・刊行作業を進める
「東京裁判資料刊行会」
(代表・小堀桂一郎東京大学名誉教授)
の調査によって確認されています。

問題の史料は、
昭和22年9月に法廷に提出されたものの、
連合国側に却下された外務省情報部の
「中国共産党一九三二年史」にある
「中『ソ』臨時政府ノ対日宣戦布告文」
(昭和7年4月26日付)です。

そこには

〈中国「ソヴエート」共和国臨時中央政府ハ全国ノ労働者、農民、兵士及一切ノ被圧迫労働大衆ニ向ツテ直チニ民族革命戦争ヲ実行シ、直ニ日本帝国主義ト戦ヒ、
 
(略)国民党ノ反動統治ヲ転覆スルコトヲ宣言スルモノデアル〉

とあります。

また、同様に却下された
「中国共産党一九三四年史」にある
「中国工農紅軍北上抗日宣言」
(昭和9年7月15日付)には、
毛沢東の名前で

〈(工農紅軍ハ一再ナラズ)対日宣戦ヲ公ニシ対日宣戦ノ緊急動員令を下シ〉

と記されているのです。

東京裁判とそれが日本人にもたらした
戦後の歴史観には、
こうした事実は封印されたままです。

もちろん、全面的な衝突を
望まなかったにも拘わらず、
両者の和平がならなかった背後には、
日本側を見れば中共の術中に
陥っている軍部の妨害があり、

 
蒋介石の側にあっても、
中共と、しきりに蒋を援助しながら
対日抗戦を続けさせている
米国や英国の存在があったことを
見ないわけにいきません。

が、肝心な点は、盧溝橋事件の第1発は
第29軍から発せられたこと、
同軍に中国共産党員や
そのシンパが潜入していたこと、

 
以上の事実と、中国共産党が
日本軍と蒋介石軍を衝突させ、
全面戦争に拡大ののち漁夫の利を
得ることを画策したという構図です。

盧溝橋事件直後に北京から
延安の中国共産党軍司令部に

 
「成功した」という電報が打たれていた事実も、
元日本軍情報部員の証言で
明らかになっています。

平成6(1994)年9月8日付の
産経新聞が概略こう報じています。

証言したのは
元支那派遣軍特種情報部員で
中国やソ連の軍事・諜報暗号の
解読に携わっていた平尾治さん
(終戦時少佐)で、

「当時から盧溝橋事件の真相は
 謎だったが、十四年ごろ、
 前後の文脈などから事件を
 中国共産党が起こしたと読みとれる
 電文を何度も傍受し、疑問を抱いていた」。

そこで上司(情報部北京支部長)の
秋富繁次郎大佐(故人)に聞いたところ、
秋富大佐は次のような事実を明かしたという。

〈事件直後の深夜、天津の特種情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から
 
延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。
 
電信内容は平文の明碼(ミンマ)で「2052 0501 0055」(成功した)と三回連続して反復送信していた。〉

ミンマは漢字を4字の数字に
置き換えたもので、
中国人が電報を打つ際に使います。

秋富大佐はさらに

「無線を傍受したときは、何が成功したのか、
 判断に苦しんだが、数日して、
 

 
     盧溝橋で日中両軍を
 うまく衝突させることに成功した、
 と報告したのだと分かった」

と説明したそうです。

また、平尾さんが戦後、
青島で立場を隠して雑談した
国府軍参謀(復員部高級部員)も
同じ情報を得ていて、

「延安への成功電報は、
 国府軍の機要室(情報部)でも傍受した。
 盧溝橋事件は中共(中国共産党)の陰謀だ」

と語ったという。

――さて、盧溝橋事件一つとっても、
戦後の日本人が漠然と、
しかし疑いなく抱いてきた

 
「日本軍が起こした侵略行為」
という認識がいかに粗雑なものであるか
がわかります。

本稿では点描しただけですが、
けっして無辜の中国市民を相手に
日本軍が一方的に攻め入った
というような話ではない。

思い起こせば、
平成13(2001)年10月8日、
時の小泉純一郎首相は訪中し、
江沢民国家主席らとの会談に先立って
北京市郊外の盧溝橋と
「中国人民抗日戦争記念館」を視察しました。

その際記者団の質問に
小泉首相はこう答えました

「犠牲になった中国の人々に対し、
 心からのお詫びと哀悼の気持ちを
 もって展示を見た。
 2度と戦争を起こしてはならない。」

この言葉には、
「戦争を起こしたのは日本」
という前提が感じられます。

悪かったのは日本だと――。

渡部昇一先生は生前、
この小泉首相の言葉に対しこう語りました。

〈この訪中は、首相が「いかなる反対があろうとも実行する」と公約した靖国神社への参拝を、
 
八月十五日ではなく二日早い十三日に”前倒し”して、心ある日本国民の失望と中国の反発の両方を買った年の秋ですが、国民には詫びなくとも、
 
中国の反発に対しては帳尻合わせに行ったようなものだと私は思っています。
 
日本の首相が盧溝橋や抗日記念館を訪れたのは平成七年の村山富市首相(当時)以来二人目ですが、小泉さんは、
 
過去の歴史をよく勉強することで反省し、将来、反省を生かさなければならない」としたうえで、「日中友好はアジア全体、世界全体にとっても大事な二国間関係だ」と強調しました。
 
しかし、過去の歴史をよく勉強してもらいたいのは小泉さん自身です。〉
 
『日本を蝕む人々』PHP研究所、平成17年刊)

【上島嘉郎からのお知らせ】
●「勝野洋 古希記念舞台公演 HOTEL MONTBLANC(モント・ブランク)に”役者”として出演します。

 
(7月24日~28日/会場・東京六本木「俳優座劇場」、出演は勝野洋、尾藤イサオ、壱城あずさ他)御観覧をいただければ幸いです(ちょっと恥ずかしいですが…)。
 

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