「我が名さけすむ 人の多きを」: From 上島嘉郎

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

 『上島嘉郎のライズ・アップ・ジャパン』
     2019/9/2

      「我が名さけすむ 人の多きを」

 

           From 上島嘉郎

■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■

「我が名さけすむ 人の多きを」
From 上島嘉郎

74年前の今日
(昭和20[1945]年9月2日)、
日本は東京湾上の米戦艦ミズーリ艦上で
大東亜戦争(第二次世界大戦)の
降伏文書(Instrument of Surrender)に
調印しました。

日本側は重光葵(しげみつ・まもる)外相が
全権として天皇と日本政府を代表し、
梅津美治郎(うめづ・よしじろう)参謀総長が
大本営を代表して署名し、

連合国側は、マッカーサー連合国最高司令官が
米、英、ソ、中の四カ国を代表し、
併せて日本と戦争状態にある
他の連合国のために署名しました。

今日の教科書や新聞報道の短い記事では、

「日本は連合国に無条件降伏した」

というように書かれ、
その認識が定着した感がありますが、
降伏はポツダム宣言に基づくもので、
第5条に

「吾等ノ条件ハ左ノ如シ」

とあるように、日本は彼らに示された
条件を受諾して降伏しました。

同宣言第13条に

吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス」

とあります。

彼らが求めたのは

「全日本国軍隊ノ無条件降伏」

であって、日本国家の
無条件降伏ではありません。

日本政府と昭和天皇は、ポツダム宣言を
「有条件講和」の提議であると認識し、
一種の条約締結というかたちで
戦争を終結できると判断した結果、
最終的に8月14日

「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ
 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨
 通告セシメタリ」

との詔勅が発せられ、
翌15日の玉音放送となったわけです。

日本人が「日本は無条件降伏した」
と思い込むようになったのは、

 
戦後のGHQ(連合国軍総司令部)の
占領政策、とくに検閲と情報操作による
影響が大きいのですが、
それについては本メルマガでも
追い追い書いていきます。

今回は、降伏文書に署名した
重光葵という人物について書きます。

重光は明治20(1887)年
大分県に生まれました。

東京帝大を出て外務省に入り、
駐ソ大使、駐英大使、駐華大使
などを歴任し、

 
東条・小磯・東久邇内閣の
外相をつとめました。

昭和16(1941)年8月、
時の近衛文麿首相が
ルーズヴェルト米大統領との
首脳会談を望んで
焦燥の日を送っていた頃、

 
当のルーズヴェルは
チャーチル英首相と会談し、
大西洋憲章に署名しました。

そこには

「領土不拡大」
「通商・資源の均等開放」

と並んで

「民族自決の原則」

が謳われましたが、
チャーチルは臆面もなく
民族自決の原則はイギリスの
植民地に対しては適用されない、

 
インドやビルマは例外である
という態度を取り、
英議会でもそう答えていました。

ルーズヴェルトも「大英帝国の問題」
として異を唱えず、
白人によって切り分けられた
植民地という名のケーキは
そのままでした。

重光は、この大西洋憲章の「利己と矛盾」、
欺瞞をついて大東亜戦争に

 
「アジア解放」の理念を明瞭に
掲げようとしました。

昭和18(1943)年4月末、
駐華大使から東條内閣の外務大臣に
就任した重光はこう訴えます。

〈大戦争を闘う日本には、戦う目的について堂々たる主張がなければならぬ。自存自衛のために戦うと云うのは、戦う気分の問題で、主張の問題ではない。
 
東亜の解放、アジア復興が即ち日本の主張であり、戦争目的である。
 
公明正大なる戦争目的が、国民によって明瞭に意識し理解せられることによって、戦争は初めて有意義となり、戦意は高揚する。
 
また若し、戦争の目的さえ達成せられるならば、何時にても平和恢復の用意があるわけであるから、戦争目的の高調及び限定は、平和恢復の基礎工作となるわけである。
 
且つ、かような戦争に乗り出した以上、中途半端で如何にすることも出来ぬ。
 
犠牲に犠牲を生んで行くことは止むを得ぬ。
 
ただ、人としても、国家としても、自ら至善なる本体を見出すことは、大なる力であって且つ神聖なる仕事である。
 
これによってこそ、たとえ戦争の結果は如何であっても、国として人として将来が立派に見出されるのである。〉
(重光葵『昭和の動乱』)

そもそも重光は、

「日本自身の破綻になることが
 余りに明瞭である戦争への突入を、
 最後の場面においても阻止する
 努力をしなければならぬ」

と考え行動した外交官です。

しかし、戦うことに決した以上、
今度は

「堂々たる主張がなければならぬ」

と覚悟を固め、さらには、
この戦いに敗れた場合、
日本の戦争には

「アジアの解放と独立」

という歴史的意味があったことを
戦勝国の掲げる正義に対置する
必要があると考えました。

この重光構想に共感した東條英機は
積極的に共栄圏外交を展開し、
昭和18年8月1日にビルマを、
10月14日にフィリピンの独立を
承認して同盟条約を結び、

 
同23日に自由インド仮政府を承認、
30日に汪兆銘政権と同盟条約を結ぶ
という大急ぎの外交作業となりましたが、
 
同年11月5日、6日の
大東亜会議に結実したのです。

そこで発せられた
大東亜共同宣言の骨子は、

「共存共栄」
「互助敦睦」
「伝統尊重」
「経済発展」
「人種差別の撤廃」

でした。

戦後、戦勝国が東京裁判で
日本を断罪するのに使った

「民主主義対全体主義」

という図式の中で、
戦時日本の行動は悉く
「侵略」と非難され、
大東亜会議の評価も

「アジアの傀儡を集めた茶番劇」

として黙殺されましたが、
それは大東亜会議に集った
指導者の存在を軽視し、

 
戦勝国の正義に合致しない事実を
封じ込める態度でした。

重光は、

「かような戦争に乗り出した以上、
 中途半端で如何にすることも出来ぬ。
 

 
犠牲に犠牲を生んで
 行くことは止むを得ぬ」

と云いました。

犠牲に犠牲を生んで行く、
とは今日的価値観からすれば、
まさに愚かな、無謀な戦争
ということになるでしょう。

しかし、それに挺身してこそ
アジア諸国は暗黙のうちに
日本の戦いに「偉大な敗北」を見出し、

 
志潰えぬ国の人々は自ら起って
白人列強に立ち向かい、
独立への歩を力強く進めるに違いない。

重光は、勝敗を超えた戦争の意味を
そこに見ていました。

そしてそのことは、
戦場に散った多くの若者たちも
暗黙に承知していたように思います。

一個しかない己の命を
何のために散らせるのか。

本メルマガで再々取り上げている
山岡荘八は戦争末期の一景を
こう綴っています。

〈もはや完全に日本軍は負けているのだ。
 
したがって自殺行為を少なくするためには条件のいかんは問わず、終戦に導くべきだという理性に通ずる。
 
ところが、一方にはそうした計算を愍笑(びんしょう)する感情の奔流もあった。
 
いや、決してこれも感情だけのものではない。
 
仮りに鹿屋の飛行場で、特攻の出番を待っている若者たちに、
「――それは自殺行為だ」
 などと云ったら、彼らは、苦笑して首を振ったに違いない。
 
私自身、それに近いことを云って、愍笑されたことがある。
 
「――日本人という人間の生きているのは、今日、只今だけではない。永遠ですよ」と。
 
そして、その学鷲は私に「――往生」という言葉の意味がわかるかと問い返して来た。〉
(『小説太平洋戦争』)

 日本の永遠を信じて往く――。

こうした若者たちを
歴史の中に持ち得た我々は、
しかし今日その行為を
狂気の沙汰と貶め、

 
父祖の「偉大な敗北」を抱きしめず、
「アホな戦争」「自爆戦争」、
さらには近隣国に多大の損害と苦痛を与えた
「侵略戦争」と決めつけ突き放している。

しかし、ここに世界史を
俯瞰する視点を持ち込めば、
それほど単純な結論には
なり得ないでしょう。

19世紀に至るまで
ヨーロッパ諸国は植民地経営という名の
侵略戦争を続けていました。

15世紀以降の地理上の
発見とともにヨーロッパ諸国が
アフリカ、アジア、南北アメリカで
行った植民地の収奪で、
その征服欲が頂点に達し、
世界の分割がほぼ完了したのが19世紀です。

シナのアヘン戦争、
インドのセポイの乱などは、
すべてヨーロッパ人の支配に対する
非ヨーロッパ人の戦いで、

 
それを武力鎮圧したヨーロッパ人の
冷酷な徹底ぶりは、狩猟感覚の虐殺と
変わりないものでした。

有色人種への残虐が
当たり前に行われた時代が続いた結果、
19世紀末までに日本など
わずかな例外を除いて地球上の
ほとんどすべての地域がヨーロッパ人の
支配下に置かれました。

アフリカの分割は完了し、
南北アメリカから原住民の王国は消滅し、
アジアも英領インド、英領ビルマ、
英領マレー、仏領インドシナ、

 
オランダ領スマトラ、オランダ領ボルネオ、
オランダ領ジャワ、米領フィリピン、
 
ドイツ領ビスマルク諸島となり、
オーストラリアはイギリスが獲得しました。

こうした弱肉強食の帝国主義の時代に、
幕末の我が父祖は開国を迫られ、
その荒波に乗り出していかざるを
得なかったのです。

いかにも日本は大東亜戦争で
ビルマやマレー、インドシナ、フィリピン
などを戦場にしました。

そこで現地の多くの人々を
戦火の巻き添えにしたことは事実です。

けれども、日本は現地の人々を
敵として銃口を向けたわけではない。

そこに居座っていたヨーロッパと、
アメリカと戦ったのです。

大東亜戦争の歴史的意味は、
戦前日本の歩みを無謬に
するものではありません。

父祖の苦闘に対する愛惜の念のない
総理大臣談話とは別の視点から

 
「国策の誤り」を検証することは不可欠ですが、
そのためには「禁忌なき言葉と自由な思考」
を取り戻さなければならない。

それなくしての検証、反省は、
結局東京裁判史観に
囚われることになると考えます。

重光葵は、降伏文書調印の署名を
行うに当たってこう詠みました。

願くは 御國の末の 栄え行き
我が名さけすむ 人の多きを

「犠牲に犠牲を生んで行くことは止むを得ぬ」

とまでの決意で戦った大東亜戦争の
降伏署名をする自らの無念に、
後世の日本人を信じて祖国の繁栄を期する
強い思いが重ねられています。

令和という新しい御代を
生きる私たちには、
過去と未来の結節点に立つ者としての
責任があります。

その責任の自覚のためにも、
父祖たちの、死者の言葉(遺志)に
耳を傾けなければならない。

さらにはその言葉を、
安易に今日的な価値観に
引きつけてはいけないと思います。

【上島嘉郎からのお知らせ】
●拉致問題啓発演劇「めぐみへの誓い―奪還」映画化プロジェクトの御案内
http://megumi-movie.net/index.html

●慰安婦問題、徴用工問題、日韓併合、竹島…日本人としてこれだけは知っておきたい。
『韓国には言うべきことをキッチリ言おう!』(ワニブックスPLUS新書)
http://www.amazon.co.jp/dp/484706092X

●大東亜戦争は無謀な戦争だったのか。定説や既成概念とは異なる発想、視点から再考する。
『優位戦思考に学ぶ―大東亜戦争「失敗の本質」』(PHP研究所)
http://www.amazon.co.jp/dp/4569827268

コメントを残す

サブコンテンツ

FC2ブログランキング

政治・経済ー政治

ブログの殿堂

ブログランキング

i2iアクセス解析

国税

i2iサイト内ランキング



合計累計カウンター


今日の合計


このページの先頭へ