■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 地球史探訪:冷戦下のヒロシマ          

■■ 国際派日本人養成講座 ■■  地球史探訪:冷戦下のヒロシマ          

■1.不必要だった原爆投下■  

アイゼンハワー連合軍最高司令官(後の米国大統領)は、ステ ィムソン陸軍長官から、原爆使用の計画を聞かされた時の事を思 い出して、次のように述べている。  

彼が関連の事実を述べているうちに、自分が憂鬱な気分にな っていくのが分かって、大きな不安を口にした。

まず、日本の 敗色は濃厚で、原爆の使用は全く不必要だという信念を持って いた。

・・・ 日本はまさにあの時期に、「面目」を極力つぶ さない形で降伏しようとしていると、私は信じていた。[1,p11]

 当時の米陸海軍の高官たちは、異口同音に原爆使用が不必要だ ったと述べている。

たとえば: アーネスト・J・キング米艦隊最高司令官:(原爆も日本本 土への上陸作戦も必要ないとして)なぜなら、じっくり待つつ もりさえあれば、海上封鎖によっていずれ石油、米、薬品など の必需品が不足し、日本人は窮乏して降伏せざるをなくなるか らだ。[1,p471]  

カーティス・E・ルメイ陸軍航空軍少将:(B29の空襲に より、日本にはすでにめぼしい爆撃目標がなくなりつつあり) ロシアの参戦がなく、原爆がなくとも、戦争は二週間で終わっ ていただろう。[1,p485]  

同様な見解を漏らした米軍人としては、ウィリアム・D・レイ ヒ海軍大将・大統領首席補佐官、チェスター・ニミッツ提督、ウ ィリアム・ハルゼー大将、ヘンリー・H・アーノルド陸軍航空軍 司令官、そしてあのダグラス・マッカーサー元帥など枚挙に暇が ない。  

これら米軍高官たちの意見を無視して、トルーマン大統領は広 島、長崎に原爆投下を命じた。

その狙いは何だったのか?

■2.原爆という切り札■  

1945年5月6日、英首相チャーチルは、緊急の米英ソ首脳会談 をトルーマンに提案した。

ソ連は占領下のポーランドで傀儡政権 を作り、16人の地下活動家を逮捕していた。

このままでは東欧 全域がソ連の勢力圏内に入ってしまう、と危惧したのである。  

トルーマンの回答は、会談には賛成だが、7月15日以前では 出席できないというものだった。

「会計年度内に予算教書を作ら ねばならない」という理由に、チャーチルはあきれ、怒った。

何 度も早期開催を要求したが、トルーマンの返事は変わらなかった。  

トルーマンが、ポツダム近郊でスターリンと会談をしたのは、 7月17日正午であった。

そのわずか21時間前に、米国ニュ ー・メキシコ州で世界最初の原爆実験が成功していた。

 科学者たちは悪天候のために、実験延期を主張していたが、責 任者のグローブス少将は強行させた。

「ポツダムの事がそんな具 合だったから、・・・延期できなかった」と後に語っている。

ト ルーマンは、原爆という切り札を手にしてから、スターリンと対 決しようと考えていたのである。

■3.トルーマンの強気■  

チャーチルは本会議の始まった瞬間からトルーマンが強気なの に驚いていた。

原爆のことを知った後で、彼はスティムソン陸軍 長官に語った。

 昨日トルーマンに何があったのか、やっと分かった。

私には 理解不能だった。

この(実験成功の)報告を読んだ後で会談に やってきた彼はまったく別人だった。

とにかくロシア人に向か ってああしろ、こうしろと指図し、初めから終わりまで会議を 取り仕切っていた。[1,p372]  

一方、スターリンも、スパイによって原爆の情報をつかんでい た。

宿舎に帰ってから、モロトフ外相に言った。

「クルチャトフ に、すぐに連絡して、仕事を早めろといっておこう。」 クルチ ャトフとは、ソ連の核開発の責任者である。[2,p82]  

これが米ソの核軍拡競争の始まりであった。

■4.ロシア参戦の前に片をつけたい■

 米国は45年4月半ば位までは、日本を降伏させるために、ソ連 の参戦は必要不可欠だと考えていた。

本土侵攻のためには、関東 軍を満洲に釘付けにしておかねばならず、そのためにソ連の北か らの攻撃が必須であった。

またソ連の参戦自体が、日本を降伏に 追い込む大きな衝撃になりうると考えていた。  

しかし、その後、米海軍が制海権を握ったことにより、関東軍 の帰国を阻止できる見通しがついた。

またB29による絨毯爆撃 で、日本本土侵攻自体ももはや不要という見方が広がっていた。  

さらにソ連を参戦させることは東ヨーロッパのような厄介な問 題を極東に持ち込む恐れがある。

「ロシアが参戦する前に何とし ても日本問題に片をつけたい」(バーンズ国務長官)というのが、 当時のアメリカの本音だった。[1,p392]  

スターリンは5月7日のドイツ降伏から3ヶ月たてば、対日参 戦すると約束していた。

8月の初旬である。

後のニキタ・フルシ チョフ首相は次のように回想している。  

スターリンは軍の幹部に、できるだけ早く軍事行動を始める よう圧力をかけた。

・・・ 参戦する前に日本が降伏すればど うなるか。

ソ連にはまったく借りがないとアメリカは主張する だろう。[2,p88]

■5.日本は降伏しようとしている■  

冒頭で引用した「日本は降伏しようとしている」とのアイゼン ハワー司令官の言葉は、まさに当時の米国首脳部に共通の認識で あった。  

日本の暗号はすべて解読されており、日本政府内のやりとりは 筒抜けになっていた。

7月12日には、東郷外相がモスクワの佐 藤大使にあてた電報が傍受されている。  

天皇陛下は、現今の戦争が日々、すべての当事国の国民によ り大きな災いと犠牲をもたらしていることに配慮され、心より 早期終戦を望んでおられる。  

そして戦争終結に向けてソ連の支援を要望する親書を携えた天 皇の特使をソ連政府が受け入れるように要請していた。[1,p332]

■6.日本の降伏を阻んでいた「無条件降伏要求」■  

日本の降伏に最大の障害となっていたのは、ルーズベルト前大 統領が言い出した「無条件降伏」であった。

無条件降伏ともなれ ば、占領、賠償金、領土割譲、戦争指導者の処刑など、戦勝国に 何をされても文句は言えないわけで、国政に対して責任を持つ政 府が受諾できるものではない。

無条件降伏を求める事は、「全滅 するまで戦うしかない」と相手を追い詰めることに他ならない。  

降伏条件を明確にすることで、日本が望む降伏への道を早く開 き、連合国側の犠牲を食い止める事ができる、というのが、当時 の米国首脳部の一致した意見であった。  

トルーマン大統領に対して、「降伏条件の明確化」を訴えてい たのは、グルー国務長官代行、フーバー元大統領、レイヒ大統領 首席補佐官、スティムソン陸軍長官、バード海軍次官、統合参謀 本部など、米国指導者のほとんどであり、チャーチル首相と英軍 トップの指導者全員がこれを支持していた。[1,p432]  

さらに米国のマスコミも、ワシントン・ポスト、ニューヨー ク・タイムズ、タイム、ニューズウィークなどが条件明示による 早期戦争終結を主張していた。

■7.削除された「天皇制容認」条項■  

日本側が受諾可能な降伏条件として、天皇制の存続を認めるこ とが不可欠だという点は、米政府内の一致した見解であった。

ま た国内外に残る数百万の日本軍に降伏を受け入れさせるためにも、 天皇の命令が必要だと米軍トップは認識していた。  

このような主張をもとに、米国務省、陸軍、海軍三省の合同委 員会によってまとめられたポツダムでの声明案第12項には、次 のように、天皇制の存続を認める一節が含まれていた。  

これらの目的が達成され、日本国民の総意を代表する平和志 向で責任ある政府が疑いの余地なく樹立されるのと同時に、連 合国の占領軍部隊は日本から引き揚げる。  

そのような政府が将来の日本において侵略的な軍国主義の台 頭を許さないという決意で平和の政策を実施すると、平和を愛 好する国々(連合国)が確信をもてれば、現在の皇室の下で立 憲君主制ということもありうる。[1,p430]  

しかし、7月26日に発せられたポツダム宣言では、この後半 部分がトルーマン大統領とバーンズ国務長官により削除された。  

日本政府はそのために、ポツダム宣言をいったんは「黙殺」し たが、8月6、9日の広島、長崎への原爆攻撃、および、8日の ソ連の宣戦布告の後の10日、「国家統治の天皇の大権にいかな る変更も加えるものではないという了解のもとに」受諾した。

翌11日、連合国側から日本の降伏を受け入れる回答がなされた。  

日本側の条件は、まさにポツダム宣言から削除されていた天皇 制容認条項と合致している。

トルーマンはこの条項を一旦削除し た上で、日本側から要求されると、すぐに了承したのである。  

マッカーサーは「アメリカが後に実際にそうしたように、天皇 制の維持に同意していれば、戦争は何週間も早く終わっていたか もしれなかった」と述べている。[1,p508]

■8.冷戦の最初の犠牲者■  

となると、問題なのは、なぜトルーマンが一時、ポツダム宣言 から天皇制容認の条項を削除したかである。

大統領の7月25日 の日誌にはこうある。[1,p436]  

われわれはジャップに降伏して命を救うように要請する警告 の声明を発表する。

だが、やつらは降伏しないであろう。  

トルーマンは日本が受諾しないだろうと知りつつ、ポツダム宣 言から天皇制容認条項を削除し、戦争を長引かせるような措置を 意図的にとった事になる。  

そして、同じくこの25日早朝には、ポツダムからワシントン の国防総省に、「8月3日以降なるべくすみやかに原爆を落と せ」という命令が届けらた。

原爆投下はポツダム宣言発表の前日 に、すでに命令されていたのである。  

トルーマンの意図について、歴史家のハーバート・ファイスは こう述べている。[1,p457]  

原爆の威力を実際の戦闘で実証すれば、ソ連と対立していた 問題の解決でアメリカ政府の威信を効果的に増大できるだろう と考えられていたことは大いにありうる。  

そして、彼らは誇示する力が強力であることを望み、また、 それは原爆の威力がおびただしい数の死傷者によって示されて 初めて可能だと考えられたと、さらに推論することができる。  

トルーマンは、ソ連を威圧し、極東での発言権を封じるために、 原爆の威力を実戦で見せつけ、原爆が-ソ連参戦でなく-日本を 降伏に追い込んだという形を狙った。

そのためには、原爆投下前 の日本降伏は避けねばならず、ポツダム宣言を日本がすぐには受 諾できないように改変した。

これが、[1]の著者アルペロピッツ が唯一成り立ち得る仮説として述べているものである。  

原爆投下は第2次大戦最後の軍事行動というより、ロシアと の外交上の冷戦における最初の主要な作戦だった。

(イギリス のノーベル賞物理学者P・M・S・ブラケット)[1,p181]  とするならば、広島の20万人以上、長崎の7万人以上の死者 は、米ソ冷戦の最初の犠牲者だったということになる。

黙祷。

■ 参考 ■

1. 「原爆投下決断の内幕・上」、ガー・アルペロビッツ、ほるぷ出版、  

 H7.8

2. 「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」、ロナルド・タカキ、   草思社、H7.6


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