書評 しょひょう : 吉田信行『産経新聞と朝日新聞』(産経新聞出版)

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  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評  
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 李登輝はいかにして守旧派のドン赫伯村の支配力を削り取ったか
  特派員だけが知っている、当時の台湾の奥の院の権力闘争

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吉田信行『産経新聞と朝日新聞』(産経新聞出版)
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 絶妙な題名である。かたや出鱈目報道ばかりのアカ新聞(つまりイエローペーパー以下)、

こなた日本で唯一まともな保守メディア。

 産経と朝日では、その紙面は百八十度、論調が異なるが、評者(宮崎)は朝日新聞を読まなくなってすでに半世紀、しかし毎週『週刊新潮』巻末の高山正之氏のコラムと月刊正論、WILL、HANADA等で、朝日新聞が何を書いているかは知っている。

 事実のねじ曲げからの癖もまったく変わりないなぁ。

「北京の特等席に座り続ける新聞」は事件によっては、「書かない」という特徴をもち、「GHQに屈して」日本を貶めることしか考えず、

それでいて朝日新聞は戦前、軍部におもねり「大東亜共栄圏を煽る先駆的メディア」だったと吉田氏は総括する。

ともかく「日本が敵視する国から『友好的』と褒められて」、なぜか朝日新聞は悦にいっている。

愛国者から見れば、首を傾げる行為である。

したがって朝日から読者がどんどん離れ、前期決算は数百億円の赤

社長の頸が飛んでも、まだ左傾のまま、さらに部数の激減を自らが招いている。

まったく莫迦につける薬はない。

 さて本書は朝日と産経の新聞論調を対比的に批判を展開するばかりではなく、吉田氏が台北支局長時代のとっておきの秘話が披露されている。

 当時、李登輝は無名だった。

 なにしろ蒋経国の勇断がなければ、農業政策通の政治家としての存在でしかなかった李登輝が、副総統に指名され、経国急死によって突如、台湾総統になったのだから、外省人にとっては目の上野たんこぶ、すぐには排除したい人物だったのだ。

戒厳令は敷かれたまま、言論の自由はなく台湾独立派運動は地下運動で、しかも「産経は国民党寄り」と誤解されていたため、蒋介石支持派の日本のメディアという認識があって、台湾独立に賛同する本省人たちは読んでいなかった。

その頃、評者が台北のホテルでみた産経新聞は方々が穴だらけ、つまり中国関係の記事は挟みで切り取られていた。

吉田記者の或る報道を切っ掛けに、台湾民衆の産経新聞への目が変わった。

産経は台湾本省人のトモダチだったのか、と。

著者が赴任後すぐに書いた一本の記事(中華民国号から台湾号へ)が波紋をよんだからだ。

「外省人の権威主義的支配」を批判し、現地の新聞が「一面を潰して全文を翻訳転載する事態とな」って、支局には一方で『抗議の封書が合計43通、うち二通にはカミソリが同封されていました。

代わって(産経台湾)支局には、これまで足を向けて来なかった台湾人らが頻繁に訪れるようになり』、とうとう李登輝とのホットラインが出来ることになった。

爾来、李登輝とのオフレコのインタビューが十数回、ある時は李登輝自身から

「91年には軍事クーデターの危機があった」という秘話もきいたという。

もう一つの「事件」は司馬遼太郎の台湾取材だった。

李登輝との会見で「台湾人に生まれた悲哀」という歴史的な言葉を司馬遼太郎が引き出したことだった。

司馬は李登輝の赫伯村を比喩して「海千山千の軍人よがりで、煮ても焼いても食えない人」と評したと紹介している。

当時、赫は外省人最大の実力者だったが、96年台湾総統選で、本省人の林洋港を総統候補とし、自らは『副総統候補』で立候補したが李登輝に惨敗し、その後、徐々に影響力を無くした。

96年総統選は李登輝54%、二位が民進党の膨明敏で21%、国民党守旧派から出た林・赫コンビは14%だった)。

こうした秘話満載、知らなかった台湾情報が多かった。
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