2017年以降、ハリウッドの女優たちを中心に世界中に広がった「#Me Too」運動というのがある。
過去のセクハラ被害を告発する運動で、何人もの男性が、何十年も前のセクハラ疑惑で糾弾された。
もちろん悪質なケースがあったことは否めないが、多くは一切の弁明も許されず、正式な裁判を受ける前に社会的に抹殺された。
 この事態に、「このような正義はリンチにつながる」と、次第に運動の行き過ぎを批判する声が上がるようになった。
驚くべきことだが、運動の中心にいた女優が過去、共演者の若い男優に性的暴行をしていた、と米メディアが報じ、一方的に糾弾された男性たちも声を上げるなど泥仕合の様相を呈している。
 森氏の発言で、「日本は外国に恥をさらした」「わが国はジェンダー後進国であることが分かった」などと言う人は少なくない。
しかし、ジェンダー先進国の米国で吹き荒れているのは、中世の魔女狩りや人民裁判まがいの人権侵害である。
森氏へのメディアリンチ、つるし上げとも思える今回の騒ぎには既に色濃くこの影響が現れている。
いやこれが欧米の常識だ、世界のすう勢だと言われても私は納得できない。
 「異端審問官」が闊歩するような社会は御免である。
そもそも、ジェンダーを巡るこのトレンドが普遍的なものかどうか分からない。
少し時代が下って顧みたとき、あれは行き過ぎだった、間違っていたと否定的に捉えられる思想や価値観はいくらでもある。
その代表格が共産主義だろう。

 2019年のラグビーW杯の日本招致、台湾の李登輝元総統の葬儀への参加など、森氏には内外に大きな功績がある。
その森氏に対し、日本の古い男尊女卑の価値観が染みついていて、多様性を理解せずもはや矯正不能だとの声がある。
しかし、多様性とは本来、そうした異なる価値観の人々をも包摂し、その寛容の精神で共存することではないのか。
一方的に差別者の烙印を押し、糾弾し、社会的に葬り去ることが多様性なのだろうか。
 だが、森氏を口汚く罵(ののし)る人たちは、差別者は別だ、異なる価値観の範疇にも入らない、共存などできるわけがないと言うだろう。
事実、ある社会派ブロガーと称する女性はツイッター上で、「このクラスの男性たちは、中国共産党がやっていたような再教育キャンプに入れたほうがいい」と発言した。
 自分は間違っても「差別者」の側には立たない。
そう信じている人は多いだろう。しかし実はいとも簡単に“そちら側”に転ぶ危険がある。
故筑紫哲也氏と言えば、リベラル派に今も人気の高い著名なニュースキャスターだったが、その彼が一時、「差別者」とされていた事実をご存じか。
 彼は、1989年、自身の名を冠したTBSのニュース番組の中で、比喩として1回「屠殺(とさつ)場」という言葉を使ってしまった。
翌日、彼はすぐに同番組の中で謝罪したのだが、一部の屠場労働組合から抗議があり、その後、部落解放同盟も加わり、9回にも及んだ「糾弾会」への出席を余儀なくされた。
 「糾弾会」とはどのような場か。大勢が一人の人間を取り囲んですさまじい怒号を浴びせ、言葉でも徹底的に追い込んでいく。それが長時間行われる。
この修羅場に、過去、筑紫氏だけでなく有名無名多くの人が引き出された。
その大半が、とても差別意識があったとは言えない言葉尻をとらえられ、「差別者」認定されてしまったのである。
こうした糾弾が社会に何をもたらしたかと言うと、「同和団体は怖い」「関わりたくない」という忌避感と新たな差別感情である。
 先ほど米国の過激なフェミニズム運動について触れたが、その米国で似たような現象が起きている。
企業の男性管理職の多くが、トラブルを恐れて女性を避ける傾向にあるというのである。
問答無用の徹底的な糾弾は、双方に不幸な結果しか生まない。
ちなみに、現在の部落解放同盟の「糾弾」に昔日の勢いはないそうである。
東京五輪・パラリンピック組織委の理事会と評議員会の合同懇談会を前に言葉を交わす森喜朗氏(左)と川淵三郎氏=2021年2月12日、東京都中央区
東京五輪・パラリンピック組織委の理事会と評議員会の合同懇談会を前に言葉を交わす森喜朗氏(左)と川淵三郎氏=2021年2月12日、東京都中央区
 森氏が2月12日に会長職の辞任を表明した後、後継指名を受けた元日本サッカー協会会長の川淵三郎氏も結局辞退、紆余曲折の末、2月18日にようやく新会長に橋本聖子五輪相が選出された。
しかし、この混迷を招いた責任は森氏だけにあるのか。
私には、森氏を「差別者」と決めつけて世の中を扇動したマスコミにも多くの責任があると考えている。
女性の一人として私は、森氏から差別を受けたとは思っていない。